昭和42年07月19日 夜の御理解
信心が有難いものだなあと分かるというまでに、相当の時間がかかると思うですね而もその信心が有難い、と分からして頂くそのまでが長い又期間があるのです、いわゆる御縁を頂くというかそのチャンスに恵まれるというか、そういうチャンスに恵まれる。又は御縁を頂くという事それまでに随分の長い長い時間が、掛るものですけれどもこうしてま皆さんの場合は御縁を頂かれた訳であり、そのチャンスを頂かれた訳なんです。
今晩合楽会の方が殆どで御座いますから。その合楽会の人達に聞いて頂くならばですそういう御縁を本当にあの御縁としてですね、本当信心ちゃ有難いものだだけではなくて、はあこの神様の信心が何故私共人間に必要なのかと、いやもう当然人間がですね真実の幸せを頂く為には、成程この道を体得しなければ人間の真実の幸せではあるまいとこう分からして頂くという事。
天地の中に生かされて、生きておると云う事がです。その事をこの分からせて頂くという事だけでも大変な事なんだ、信心が分かると縁を頂いて、そういうチャンスに恵まれる ですから、その縁を折角恵まれながら、その縁を活かし切らずに、唯ああいう事もあったと、ほんに一辺合楽の金光様に、お参りした事もあったと云う事だけで。そのままになって行く様な人もあるかと云うと。
一辺のお参りがいよいよ二回三回になり、いよいよ信心の有難さが分かって来る様になり。なるほど天地の御恩徳が分からして頂く様になり、一日が神恩報謝の生活が出来る様になると言うところまで、お互いに信心が進められて行かなければならない。ところがんならまここに十年又は十。まあ一番初めからおかげを頂いておる方で、十七年ですね、おかげを受けさして頂いておられる方達。
是はもう間違いなしに、信心の有難さだけは分かっておる人達なんです。続けられておると云う事から見ましても、信心の何たるかと云う事は、本当の事は分かっていないけれども、有難い神様だと云う事だけは分かっとる。お参りすりゃお参りするがたおかげ頂く、と云う事も分かっとる、という人達がその、ま現在の合楽の御信者の中には、殆どなんで御座いますけれども、んな信心が有難いという事が分かったらですね。
本当に有難いおかげの頂けれる信心の道を、んならその方達が一生懸命極めて行きよるかと云うと、中々そうでもないね。先ず何と云うても御神縁を頂く迄に随分の、例えば時間があるね、例えて云うならば西田さんなんかが、もう六十何才ですかね、六十何年間という間ですね。天地の御恩徳も分からんなりに、こういう神様が御座るという事も知らんなりに、云うならばうわさ位にゃ聞いておられただろうけれども。
身を持ってはぁも有難い神様だと。ようやく分かり出されたんですからね、六十何年振りに言うならばかというとんなら、今日あのもう一人の今日初めて参って見えた、お父さんは西田みつるさんと云いますかね、お子さんなんかはまあ今が十歳だそうですが、子供ながらも一つの難儀がある訳なんです、身体にね医者へ行ってもそういうて、会おてはくれない様な言うならば病気なんです。
でも親心ですやっぱり自分もお参りちょっと、ある事でお参りしたいからこの子も連れてお参りしたいと言うて、おばあちゃんと三人でお参りして見えられて、お父さんは用があるから、もう帰られましたけれども、是なんかは十歳の時に御神縁を頂いた訳です。そして十歳の時に縁を頂いて、おかげを受ける事が分からして貰うて、十歳の年から云うなら信心の道が分かって行くとするならば是はもう有難い。
言わばお引き合わせを頂いたという事になる訳です六十、七十になって初めて御神縁を頂いて、初めて神様の有難さが分かったという人達も、是からもでけて来るでしょう。ですからその有難い神様だな、と分かるまでに何十年間の時間と言う物が掛っておるという事、天地の親神様が一人一人の氏子の上に、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、とこういう祈りと願いを持っておられるのだけれどもです。
自分にそういう親はおらんのだと言うたらそれまでの事、そういう神様が御座るか御座らんか分からんて言うたら、やっぱり御座るか御座らんか分からんのである成程ここには、私共の命の親である所の天地の親神様という、神様のおかげを頂かなければ実を云うと、私共はここ一寸すらが動く事は出来ないのだと自分で出来ると思うたら動いて見たがいい、と例えば中風の人に云うて見て御覧なさい一寸だって動かれんでしょ。
自分のいや動いておるのは、許されて動いておるだけの事なんだ。そう言う様な事がです、私はその分からして頂く機会と言う物をです。チャンスと言う物に恵まれさ折角恵まれながらその縁を縁として活かし切らずに、ほんに一辺あすこに参った事があったと言うだけで、また終って行く人もありゃその例えば十才位の若さでですよ。十才の時にお婆ちゃんとお父さんとこう言う様な事でお参りさして頂いたな。
この子が二十になり三十になった時にです、こういう有難い神様を自分は十才の時に御神縁を頂いた御神縁を頂いた起源というのはこう云う事であった。それから段々信心をさして頂く様になって、日々が神恩報謝の生活が出来るようになった。という事になれば大変な有難い事だけれども、それとてもその縁が育っていかなければ駄目なのである。だから例えば合楽の合楽の皆さんは。
殆どはその縁をこれから育てて行こう、という精進が必要だと云う事になる、縁はですね、異なものにしてはいけません、もいよいよ味な物にしていかなければいけません。縁は異なもの味なもの、はぁ一辺参った事があった、ほんにあすこに大祭の時に一回参った事があったと言うて、もしそんままで終るとするならば異なものなんだ、所があの時が初めて御神縁を頂いた。
初めであったがあの縁が段々活かされて、日々を生かされて行く喜びを分からして貰、日々が有難い神恩報謝の生活が出来る。さあいざと言う時にはお取り次を頂いて、このようなおかげも頂いた。あの様なおかげも受けたという事になって来た時にです、始めてその縁と言う物が味のある物に成って来た。ですから矢張り物はですね、育てる事に努めなければいけません。
私は昨日、一昨日熊本へ参りました、金光教の九州大会が御座いました。帰りに菊池、菊池川というのがありますねあれの上流の方へ、もう大変素晴らしい所があるというので、皆さんに連れて行って貰いました。であちらから珍しい苔やら珍しいシダ類なんかを少し頂いて参りました。山からねどうでしょうそれを頂いて来ただけで、ほうからかしておったら、どういう事になりますでしょうか。
折角採って来たばってん枯れっしもとると云う事になるんじゃないでしょうか。そこで私は昨日ですね、夕方から、夕方からが一番良いというので夕方から、その丁度お月次祭の準備を丁度しとりますけれども、若い人達に云うて植えてもらいました、そして今度はそれの根元にワラやら筵の様な物を置いてですね、水をじっくりやっております、今日も私は、水をやっただろうかと思うて、見に行ったら水がやってあった。
又水をやって来た、私は育つと云う事はそう言う様な事だと思うんです。金光様の御信心に根が張って来ると言う事ね。お参りをさして頂いて、ま言わば何となしに有難いものを頂いて帰った。頂いてからそのまんまひと月間もそのまんましとるけんで、又枯れっしもとる又元のもくあみになっておると、言う様な事では勿体ない話でしょうが、その何とはなしにあらこの信心ちゃ有難い事は分らんけれども。
有難いものかも知れんな、あれが本当であるならばあれが事実であるならば、自分達でもおかげを頂けばああいうおかげが受けられるんだなあ、と言う事が分かって来た。その有難いと言う物をですね、私共はです、育てて行く所の私は精進が必要である、折角山から採って来た、暑い中にお参りをさして頂いた、言わばそのシダ類を私が、山から採って来た様なもんなんだ。
採って来ただけでは何にもならん、言わば骨折り損のくたびれ儲け、そうでしょうが、時間を費やして馬鹿らしい話じゃないですか。ところがその採って来た、その言わば植物をです、私がここが良かろう、ここが良かろうと云うてその場所をよって植えさして頂いた。そんなそいで良いかと言うとそれじゃいかん、それじゃ植えただけで又枯れてしまう、菊池渓谷のあの趣と言う物をです。
言わばこういう里に持って来てから、少しでもそれを気分を味わいたいと思うならば、あすこの苔がここで育たなければならない、あそこのシダがここで立派に青々と茂っていかなければならない、為には水をやる、様々なそれに手を掛けて行く所にです。それが見事に接って行く訳なんですよ、ですから椛目で、んなら十五年十七年と信心を続けておられる方達は、信心も有難いと云う事は分かった。
成程この神様のおかげを頂かなければ、実を云うたら生きてすらいけんのだと、云う事が分かった。この神様のおかげを受けるという事によって、本当の人間の幸せがあるんだ、と云う事が分かって言わば根が下りた訳なんです。接ったんです。けれどもそれからですね例えば信心を頂いておる方達がです、有難いという事が分かっておりながら、有難いというその道を行じないこの道を行けばというのに。
その道を歩かないこういう心の状態にならなければというのに、その心の状態になろうと改まらない、是であったら只接ったというだけで大した事はないね、ですから信心を頂いて信心を頂くという迄が、何十年という時間が言わば掛る人もあるので御座いますね。西田さんの場合なんかは、六十年間という長い間、御神縁を頂くまでに時間が掛っておる、そして始めて朝のお参りをさして頂く事によってです。
ここのお広前に只お引き寄せを頂いておるというだけでも、こんなに有難いものだと云う事である。おじいちゃまが仰った、あらお前今日も又参るとか、もう参りとなかばの私ゃ、あすけおるだけで心がもうそれこそ、先程何とか、良い言葉で仰っておられましたです。もう兎に角心が清々しゅうなると、いう意味の事を言っておられましたね。そして例えば痛み痛みも苦しみも忘れてしまういっときがあるのだ。
金光様のお広前と言うところは有難いところだ。と云う事をお爺ちゃんに話された。所がさあそん翌日からほらもう朝参りの時間ぞ、と云うて起こして下さる様になったという、それからもう一月余りでしょう毎朝、朝の御祈念にお参りなる内にです。信心の有難いという事が、有難い事になって来た。明日、明後日からおじいちゃまと二人で温泉に行かれる、さあ今までは平気で行ったんだけれども。
この神様のおかげを頂かなければと思うたら、お願いしなければいけないという事になって来た、そして帰って来てから体験される事であろう、はあ成程お願いをしてやらして頂くと云う事が。只温泉行きしたあゝよかったあゝ楽しかったというだけではない何かそこにはおかげを頂いて帰って来られるに違いはない、そう言う様に言わば西田さんなら西田さんの場合はこう、その有難いものがこう育てられて息つつあるという感じ。
ですから例えばですね、人間が難儀を抱えておると云う事は、有難い事だという事が分かって参りますね、折角合楽会にこうやって御縁を頂かれたが、月に一回ずつ合楽会に出らして貰うて話ば聞かして貰う、そしてひと月後には枯れてしもうてから、又新たなものを持って帰らんならんと、言う様な事ではなくてですね、それが次のひと月後にはです。 あれが、此の様に実って行きよる。
この様にしこって行きよる、生き生きとそれが育って行きよる、そこから体験が生まれて来る、その体験が例えば今度のひと月後ならひと月後の又、会合の時にお話し合いが出来る、又 人に聞いて貰う事が出来ると言う様なおかげを受けていって、始めて私は有難いとこう思う。御神縁を頂くまでに時間がかかる、御神縁を頂いたらその縁が、いよいよ異なものにならずに、味なものに育って行かなければならない。
そしていよいよ信心の根が張った、今椛目で何百家の信者さん方がです、日々信心の稽古をさせて頂いておる、という人達はもういうならばもう椛目以外に、自分に助かる所はないんだと言う様な、ひとつの思い込みが段々出けて来た、而も自分だけではなくて一家中の者が。先日も金光教大会の時七千名から集まっております中へです、丁度私共がかけておる所へ、その関係の方がインタビュ―に見えたんですね。
私は良く気が付かなかったんですけれども、秋永先生達二、三人に色々その質問があっておった、それに今度こんな立派な御造営が出けたという話やら、今日は実は幹部だけで来ておるという事やら、ね。色々おかげを受けた話したら、大体そう言う様な、おかげの受けられるコツというのは、どういう所にありますでしょうか、というてその質問に来られたと、さあコツというてもですねえ。
コツという様な物そう教えられるもんじゃない、一辺にさあ一口じゃ云われませんよ。是非私共のお引き寄せを頂きたいと云うて、その方達が云うておられたという事である。取分けあの、合楽の場合も特徴でもいう申しましょうか。必ず御信者さんがですね、一人信心さして頂く様になると、家族中が信心して行く様になる、と云う事又は、親戚中が信心に成って行くという事。
もう椛目の場合、又ここの引き続いて合楽に参りましてからですね、是は私も随分あちらこちらの教会に参りますけれどもね、主人が熱心だけれども、家内は熱心だけれども、というのがありますよ。ところがここの合楽の場合はですね、家族をあげてもう子供達に至るまで、年寄りに至るまでが合楽、合楽という信心に重なって行くという事、何故だろうかね、一人が実際におかげを頂いていく。
例えば、んなら西田さんのおじいちゃんなんかが、言わばある意味合いでは好奇心で、そのお婆ちゃんの姿と言う物を見ていかれるに違いはない。あらこの頃あれが痛い痛い云わんごとなった。今度段々今度人間が変わって来られる、有難うなって行かれる人が腹立てよる時に、有難いと云われる様になる、人がイライラするであろう、金光様有難う御座います。と云う様な雰囲気が生まれて来る。
例えばそう言う風におかげを頂いて行ったらですね、付いて来なけりゃ馬鹿らしいんですよ、自分もね、そういうおかげを実際に頂いておるからこそです、私は椛目の場合は、いわゆる勢を揃えた信心という。いわゆる一家が勢を揃えて信心する事が出来る様になるんだ、という事を話しておりましたらです、もう本当にそれは言わば、現在の金光教では奇跡の様な物だというておる、まあ僅かばかりの信者さん方がです。
ここで云うならば一番初めは五十家族位でした。五十家族位な者が御造営を思い立った人でした。人間数にすればやっぱ相当ありましょうけれども、家族においてはその位だった。ところが家族中の者がそれを、五十家族が思い立ったんですから、家族中の者が一生懸命になったから、あの御建築が出けたんだ、と言う様な話をさして頂いたらですね。大変その事にそういうおかげの受けられる。
もしコツがあるならば、と云われる位におかげを頂いたという事で御座います。ですから皆さんがどうでもその言わばまだ有難いと云う事が、こうで分かっておられない殆どの方が。だから信心と言う物はこの様にも有難いものだと。云う事が先ず分かる迄がですよ、根を張る事になるのじゃないでしょうかね。それが愈々育てられて行く所にです、自分だけではない。自分の周囲の誰彼が同じ有難い幸いに包含されて行く。
広がって行く、合楽のお広前を中心にして。合楽の部落が愈々信心によって、繁盛の部落になって行く問題、今まで問題になりよった事が全然問題じゃなくなって来る、そういう有難い雰囲気と言う物がです、この地に私は出けて行かなければいけないと思う。その為に皆さんは選ばれた人達だと思うんですよね。ですからそういう自覚に立って信心を分からして頂こうとする、願いを持たれなければいけんのじゃないでしょうかね。
どうぞ。